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映画 幕が上がる 多少ネタバレ

これ程、原作をダメにしてしまった作品はあるだろうか? これ程、途中で見ることをやめたくなった作品はあるだろうか? 先日、映画「幕が上がる」を見てきた。原作である平田オリザさんの「幕が上がる」に感動し、その勢いのままに映画館へ向かった。原作を上回る映画はなかなか存在しないことは十分承知していたはずである。予告編の小説にはない奇妙な演出に若干の不安を覚えていたのも事実だ。ももクロのアイドル映画だという揶揄も聞いていた。しかし、これ程期待を裏切られた作品はなかった。
 平田オリザさんが「コンテクストのずれ」という言葉を使っているが、これはその典型ではないだろうか? 自分が表現したいと思っているものを、受け手がそのまま理解しているわけではないというのがコンテクストのずれということであるが、私が彼の小説から受け取ったコンテクストと、映画監督が受け取ったコンテクストは驚くほど違ったようだ。少なくとも、私のコンテクストのほうが、平田さんに近いことは間違いないように思う。
 映画でのまず第1の違和感は、吉岡先生のほうが先に演劇部の指導に前のめりになったという点だ。彼女はどんな理由であれ、演劇に見切りをつけて教職の道を選んだ。その彼女があんなやる気の感じられない部長率いる素人演劇部に初めからコミットするというのは納得がいかない。原作では、彼女は少しずつ心を開いて、二人のエースの登場により本気になった。そんな感情の動きが映画ではまるで感じられなかった。同様の違和感は、転校してきた橋爪さんがこれまたすぐに部に入部するところだ。原作ではずっと演劇部の練習を見続けて、心が傾いていった。諦めたり、区切りをつけたはずなのに、抗うことができないところに、読者は演劇の魔力、あるいは魅力を感じることができるはずであった。
 第2の違和感は、挿入された高橋さんの白昼夢の場面である。実にくだらないカットであり、限られた尺の中でどんな意味があるのだろうか? 高橋さんが行き詰まっているようすを描くならもっと丁寧に、間接的な動作によって表すことができたのではないだろうか?
 第3の違和感は、原作では宮沢賢治の「告別」は吉岡先生の別れの言葉でもあったはずだ。それが、国語の授業の時間に変わっている。その意図はいったい何だろうか。吉岡先生の突然の離脱によって、進むべき道を見失ってしまった高橋さんはあの「告別」を読んだことによって再び動き出したはずだ。なぜそのような重要な場面を変えてしまったのだろうか。映画では単に吉岡先生が振り回しているだけになってしまっている。
 そして、最後にして最大の違和感は、演技のすごみというのが全く感じられなかったことだ。吉岡先生が「肖像画」をテーマに生徒に見本を見せる場面でも、黒木華ならもっと良い演技を見せられたはずだ。あざとく窓を開けたり、逆光にしてみたりする必要は無い。同様に、二人のエースの演技のすごみも感じられないし、演技がどんどんうまくなっていく最後の舞台も全く感じられなかった。もちろんももクロがやっているので限界はあるかもしれないが、監督自体にそのような演出をする力量も演劇に対する想いも無かったのではないかと思わずにはいられなかった。
 演劇の魔力は、それに関わったものしか分からない。しかし、その一片を原作は感じさせてくれた。しかし、映画ではそのかけらもなかったのが残念で仕方が無かった。
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Author:Banana fish
村上春樹をこよなく愛する者です。タイトルは「風の歌を聴け」に出てくる台詞から引用しました。タイトル通りにありふれた現実と美しい映画や文学について書いていきます。

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