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どうせ何も見えない

諏訪敦。極限まで精緻を極めた写実的な絵画を描く人としてチラッと名前を耳にしたことがあった。今回、彼の画集「どうせ何も見えない」を手に取った。画集などほとんど見ることのない自分であったが、彼の作品とともにこのタイトルが頭から離れなかった。
 私の乏しい美術知識を元にすると、カメラの登場以来、絵画は写実から離れ、抽象画や印象主義やキュビズム、現代美術といった新たなる表現方法を求めていった。「写真のようだ」という評価は、「写真で代用できる」と同義として捉えられ、決してほめ言葉にはならなかった。
 だが、彼の作品は写真で代用できるのだろうか?画集の解説で具象彫刻家・佐藤忠良氏の言葉が引用されている

 我々は写実の仕事をしていますが、デスマスクみたいに石膏で人の顔から型を抜けば一番その人に似るように思えます。しかしかえって気持ちの悪いものしかできない。そこなんですよ。寸法は合っていても、その人の顔じゃなくなる、気持ちの悪いものになる。かっこいい言い方をすると、人の顔を作るときは、その人の怒りや喜びや過ごしてきた時間、過去と現在と未来までも、時間性を粘土の中にぶち込もうとする。

 諏訪の仕事も同じようなスタンスを感じる。徹底的に対象物を研究し尽くす姿勢は内面までも描き出そうとする彼の思いを感じることができる。
 
 ところで、この「どうせ何も見えない」という意味深なタイトルはどうだろうか?誰が何に対してそう思うのか、考えさせられる。諏訪自身が対象物をどれほど研究しても「どうせ何も見えない」といっているのか、我々読者が彼の作品、あるいは彼の表現したいことに対してどんなに考えようとも「どうせ何も見えない」のか、対象物自体のうつろな目が「何も見えていない」のか。すべてが正しそうでもあり、間違っていそうでもある。

 一番有名な一枚は、あのNHK日曜美術館でも取り上げられた。結婚も決まり、結納式からわずか10日後に南米ボリビアを旅行中に交通事故で死亡したお嬢さんをご両親の依頼で描いた肖像である。亡くなった女性が、文字盤のない腕時計をこちらに見せて、ほんのわずか、微笑んでいる。時計は、これから外すのか、それとも付けるのか、どちらとも取れる。「行ってきます」とも、「ただいま」とも見える。
HPTIMAGE.jpg

 絵は写真とは違う魅力を持っている。ある一瞬を切り抜く写真とは違い、絵の中には作者はいろいろな思いを込めるからだ。だが、本当に彼の作品を理解しているとは思えないし、彼の思いを理解しているとも思えない。私がいくら頑張っても「どうせ何も見えない」のだから。

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テーマ : 日々のつれづれ
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Author:Banana fish
村上春樹をこよなく愛する者です。タイトルは「風の歌を聴け」に出てくる台詞から引用しました。タイトル通りにありふれた現実と美しい映画や文学について書いていきます。

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