スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

ありがとう。 上村愛子さん。

 1998年の長野オリンピックで初めてモーグルという競技を知った。そして、当時高校生だった彼女の存在もそのとき初めて知った。それから、冬季オリンピックが行われるたびに彼女の名前がメディアに踊った。彼女ほどオリンピックという舞台で物語を紡いできた人はいないのではないだろうか。「なんでこんな一段一段なんだろう・・」と涙を流した前回のバンクーバーオリンピックも記憶に新しいが、今回も多くの人が疑問を持つような判定で惜しくもメダルを逃してしまった。
 私はモーグルを含めて、冬季オリンピックの多くの種目は「競技」という名前にふさわしくないと思う。あれはたとえるならば、絵画コンクールのようなものだ。100m走で絶対的な基準はタイムである。例えば、ウサインボルトの走りが美しくないから、どんなに速くても優勝できないと言ったらどうだろうか。そのような競技は誰も見向きもしないだろう。速さを極限まで求めるからこそ、無駄のない美しいフォームができあがるのだ。一方で、モーグルはどうだろうか。ターンの美しさという非常に主観的な観点が得点の半分を占め、タイムは25%にすぎない。主観を省こうとして、採点基準を細かくすればするほど、素人が見ても明らかなミスターンがあっても合計してみると点数が高いというおかしな結果が出てくる。
 そして、その主観的美意識は時代とともに、あるいは作為的に変化していく。5年前には世界でトップクラス言われたターン技術が認められなくなってしまった。それは印象派の栄枯盛衰と同じように時代の波に翻弄されているようだ。彼女は技術の頂点を目指して、文字通り血のにじむような努力を重ねていた。そして、その頂に到達しようとする直前に頂点が変わってしまったのだ。エベレストを目指して準備し、登頂している最中に、目的地はモンブランですと言われるのと同じようなのものだ。極限状態で挑んでいる彼女に、下山して別の山へ向かう準備をすることなどできようはずがない。
 僕たちのようなにわかファンが想像できないくらいに、彼女自身はメダルを欲しかったと思う。そのことは、本当に残念でならない。しかし、彼女の走りを見て、彼女は自分の目指すてっぺんを目指すことを諦めず、そしてそこに到達したんじゃないのかなと思ったのは自分だけだろうか。彼女の晴れやかな笑顔を見るとそう思いたくなってしまった。
 
 もうひとつ、モーグル以上に競技と呼べない種目がある。フィギュアスケートである。もはや、芸術点という名の主観的印象でしかない。大技に挑戦するよりも、そつなくまとめた方が得点が高いという時点で、残念ながら浅田真央ちゃんには勝機はないだろう。手足の長さを生かしたキムヨナの滑りはそれだけで美しい。それは、誰にも否定できないのではないと思う。滑っているだけでは勝負にならないので、曲芸を披露しなくてはいけないなんて、競技と言うにはあまりにもひどすぎる。美しさだけを求めるならば、それは文字通りfigureの勝負になってしまうではないか。
 モーグルにしても、ジャンプにしても、スキー複合にしても、このフィギュアでも、日本人に不利な方向へルールが変更されていくのはなぜなんだろうか。オリンピックはしょせん、ヨーロッパの貴族の祭典と言うことなのだろうか。冬季オリンピックはとにかく納得のいかないことが多い。

 最後に、長野オリンピックのテーマソングを

    「足音」 槇原敬之


 きこえるよ きこえるよ  君の足音が 

 待っていないふりをして  ずっと待っていた

 自分の鼓動だけを ずっと聞いていた
 
 この静かな旅は もうすぐ終わる

 愛を一つ胸に かかげて行こう

 ぼくらの行く先には 何もないから

 愛を一つ胸に かかげて行こう

 後に続くみんなの 光になるから



上村さん。ありがとう。本当にお疲れさま。
スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

Banana  fish

Author:Banana fish
村上春樹をこよなく愛する者です。タイトルは「風の歌を聴け」に出てくる台詞から引用しました。タイトル通りにありふれた現実と美しい映画や文学について書いていきます。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
訪問者
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。